芭蕉の切れ

高橋悠治

1694年(元禄七年)に大阪で亡くなった芭蕉がその年に詠んだ俳句が14句ある。それらをタイトルとして14章のオーケストラ曲『大阪1694年』を作曲するとき俳句にローマ字を付け、英訳してみた。

俳句の英訳はたくさんある。「古池や」の31人の英訳を集めたサイトまである。(http://www.bopsecrets.org/gateway/passages/basho-frog.htm)直訳ほど、詩がある。語順や構文のちがい、文化のちがいがあっても、意味や状況を説明し、解釈し、俳句論や禅にこだわれば、リズムもイメージも消える。

俳句は瞬間の光を書きとめるが、作品は創造の残り物。解釈し分析する俳句論から俳句はできない。時計を分解掃除してから組み立てるのとはちがう。声にして読めば浮かび上がるリズムとイメージの断片。声は律とは別なリズムで句を切る。たとえば、「キクのカにクらがりのぼるせっクカな」。イメージは統合されず、散乱する。たとえば、「此秋は何で年よる雲に鳥」。人生最後の秋、老いの実感、雲に消える鳥影、と解釈でつなげれば、俳句は消え、感傷が残る。「秋」は環境空間、「何」は答えのない質問、「年」は時間。「よる」は近く、「雲」は遠い。「鳥」は飛ぶ。ことばの絵ではなく、たばしる子音。瞬間に投げ出された韻が、句を乱切りにする。風景は見る人とかかわりなく過ぎてゆく。病んだ社会、病むからだから解放されて、「夢は枯野をかけ廻る」、からからと音たてて。

発句は連句の発端。連句は感性のちがいが視点を変えていく即興のあそび。あいさつのように相手があり、寄り合いの雑談のようにこだわりがない。振り返らず、あてもなく、ひたすら先へゆく。歌仙のようなルールは、座への入場切符。季語や月の座のような式目も、前の句に付けながら転じる遊びを複雑にする。そこに意味をもとめて弟子たちが練り上げた方法論や規範は、ひとが立ち去った後の部屋のように空虚。

「切れ」はことばの方法論ではなく、芭蕉の生きるプロセス。身分社会からはずれ、故郷なく、定職なく、座という一時的自律空間を主催する旅の人、ことばの教師。弟子たちは身分や職業から離れ、男も女もいる。社会から切れた空間、ことばにまつわる文化を連鎖のパラドックスで解体する時間。ことばの切れが、ひとびとをつなぐ。「秋の夜を打ち崩したる咄かな」。句会は陽気なにぎわい。